軍師 山本 勘助
山本 勘助(菅助)は、戦国時代の武田信玄の軍師。
諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したというが、信憑性はない。
武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。
武田信玄の伝説的軍師として講談などで有名であるが、近年の研究によると実際は武田軍の伝令将校とされている。生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年〜1561年という。生年は1500年説、1501年説もある。
『甲陽軍鑑』によれば、勘助は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出である。
『甲斐国誌』甲府勤番支配の松平定能著1814年成立によれば、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野家に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林家(または山本家)の養子に入ったとある。甲斐国志の完成本は幕府献進本として江戸幕府に納められた。
勘助は10年の間、中国、四国、九州、関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。後に勘助が武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就や大内義隆の将才について語っている。
勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がいると若き甲斐国主武田晴信に勘助を推挙した。
天文12年(1543年)武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて来た。牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であった。
取り消されることを心配した庵原殿はまずは武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて朱印状を受けずに甲府へ赴くことにした。
晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させた。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面する。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫とした。勘助は深く感服した。
同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。勘助は100貫を加増され知行300貫となった。
晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた城取り(築城術)で高遠城、小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。
これらの『甲陽軍鑑』に書かれた勘助の活躍から、江戸時代には勘助は三国志の諸葛孔明のような「軍師」と呼ばれるようになる。なお、『甲陽軍鑑』では勘助を軍師とは表現していない。
(ウィキペディアより引用)
諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したというが、信憑性はない。
武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。
武田信玄の伝説的軍師として講談などで有名であるが、近年の研究によると実際は武田軍の伝令将校とされている。生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年〜1561年という。生年は1500年説、1501年説もある。
『甲陽軍鑑』によれば、勘助は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出である。
『甲斐国誌』甲府勤番支配の松平定能著1814年成立によれば、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野家に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林家(または山本家)の養子に入ったとある。甲斐国志の完成本は幕府献進本として江戸幕府に納められた。
勘助は10年の間、中国、四国、九州、関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。後に勘助が武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就や大内義隆の将才について語っている。
勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がいると若き甲斐国主武田晴信に勘助を推挙した。
天文12年(1543年)武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて来た。牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であった。
取り消されることを心配した庵原殿はまずは武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて朱印状を受けずに甲府へ赴くことにした。
晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させた。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面する。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫とした。勘助は深く感服した。
同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。勘助は100貫を加増され知行300貫となった。
晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた城取り(築城術)で高遠城、小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。
これらの『甲陽軍鑑』に書かれた勘助の活躍から、江戸時代には勘助は三国志の諸葛孔明のような「軍師」と呼ばれるようになる。なお、『甲陽軍鑑』では勘助を軍師とは表現していない。
(ウィキペディアより引用)
川中島の戦い・勘助の死
山本 勘助(菅助)は、戦国時代の武田信玄の軍師。
永禄4年(1561年)謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。
軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案することを命じる。
勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。
啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。
信玄はこの策を容れて、高坂昌信率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。だが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜いていた。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻。
夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にした。いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前に展開していたのである。
謙信は勘助の策を出し抜き、一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下って千曲川を渡り八幡原に布陣していた。
武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかける。
信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。
その中に勘助がいた。甲陽軍鑑は勘助の死について「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。
江戸時代の軍記物『武田三代軍略』によれば、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。
奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。『甲信越戦録』では、死を決意した勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られている。享年69。
山本勘助の遺髪を納めた墓所(愛知県豊川市牛久保町)開基者 真木宗成(念宗法印)勘助らの必死の防戦により信玄は謙信の猛攻を持ちこたえた。乱戦の最中に謙信はただ一騎で手薄になった信玄の本陣に斬り込みをかけた。
馬上の謙信は床机に座った信玄に三太刀わたり斬りかかったが、信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。
ようやく別働隊の高坂勢が駆けつけ上杉勢の側面を衝く。不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦いは終わった。この両雄の決戦を『甲陽軍鑑』は前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとしている。
永禄4年(1561年)謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。
軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案することを命じる。
勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。
啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。
信玄はこの策を容れて、高坂昌信率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。だが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜いていた。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻。
夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にした。いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前に展開していたのである。
謙信は勘助の策を出し抜き、一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下って千曲川を渡り八幡原に布陣していた。
武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかける。
信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。
その中に勘助がいた。甲陽軍鑑は勘助の死について「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。
江戸時代の軍記物『武田三代軍略』によれば、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。
奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。『甲信越戦録』では、死を決意した勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られている。享年69。
山本勘助の遺髪を納めた墓所(愛知県豊川市牛久保町)開基者 真木宗成(念宗法印)勘助らの必死の防戦により信玄は謙信の猛攻を持ちこたえた。乱戦の最中に謙信はただ一騎で手薄になった信玄の本陣に斬り込みをかけた。
馬上の謙信は床机に座った信玄に三太刀わたり斬りかかったが、信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。
ようやく別働隊の高坂勢が駆けつけ上杉勢の側面を衝く。不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦いは終わった。この両雄の決戦を『甲陽軍鑑』は前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとしている。
日野俊基 後醍醐天皇親政の蔵人
日野俊基 略歴
日野俊基(ひの としもと、生年不詳 - 元弘2年/正慶元年6月3日(1332年6月26日))は、鎌倉時代末期の公家である。父は日野種範。
文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。
後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。
諸国を巡り反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され、正中元年(1324年)の正中の変で日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れる。
京都へ戻るが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した2度めの討幕計画である元弘の変再び捕らえられ、鎌倉の葛原岡で処刑された。
辞世の句は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」
日野俊基(ひの としもと、生年不詳 - 元弘2年/正慶元年6月3日(1332年6月26日))は、鎌倉時代末期の公家である。父は日野種範。
文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。
後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。
諸国を巡り反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され、正中元年(1324年)の正中の変で日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れる。
京都へ戻るが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した2度めの討幕計画である元弘の変再び捕らえられ、鎌倉の葛原岡で処刑された。
辞世の句は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」
日野資朝 後醍醐天皇の側近
日野資朝 略歴
日野資朝(ひの すけとも、1290年(正応3年) - 1332年6月25日(元弘2年/正慶元年6月2日))は、鎌倉時代後期の公家である。父は日野俊光。権中納言。
1321年に後宇多院に代わり親政をはじめた後醍醐天皇に重用されて後醍醐とともに宋学(朱子学)を学び、後醍醐の討幕計画では中枢にいた。
1324年に計画が北条氏が朝廷監視のために設置していた京都の六波羅探題に察知された正中の変では日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪となる。
1331年に後醍醐老臣の吉田定房の密告でふたたび討幕計画が露見した元弘の変が起ると、資朝は佐渡で処刑される。
資朝が後醍醐天皇に登用される話は、吉田兼好の『徒然草』に記されている。また古典『太平記』には資朝の子の阿新丸(くまわかまる)が敵討ちを遂げるエピソードも記されている。
日野資朝(ひの すけとも、1290年(正応3年) - 1332年6月25日(元弘2年/正慶元年6月2日))は、鎌倉時代後期の公家である。父は日野俊光。権中納言。
1321年に後宇多院に代わり親政をはじめた後醍醐天皇に重用されて後醍醐とともに宋学(朱子学)を学び、後醍醐の討幕計画では中枢にいた。
1324年に計画が北条氏が朝廷監視のために設置していた京都の六波羅探題に察知された正中の変では日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪となる。
1331年に後醍醐老臣の吉田定房の密告でふたたび討幕計画が露見した元弘の変が起ると、資朝は佐渡で処刑される。
資朝が後醍醐天皇に登用される話は、吉田兼好の『徒然草』に記されている。また古典『太平記』には資朝の子の阿新丸(くまわかまる)が敵討ちを遂げるエピソードも記されている。
護良親王 後醍醐天皇の皇子
護良親王 略歴
護良親王(もりながしんのう/もりよししんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日))は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘。妃は北畠親房の娘。
元弘元年(1331年)、後醍醐が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の変を起こすと、還俗して参戦する。
以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼした。
しかし、討幕の功労者足利尊氏(高氏)とは相容れず、討幕後も上洛せず信貴山(奈良県生駒郡平群町)を拠点に尊氏を牽制する。
幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。
建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王(後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。
しかし、尊氏のほか、父の後醍醐やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集め辻斬りを働いたりした。
このため、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334年)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれる。
後醍醐との不和は、討幕戦争の際に討幕の綸旨を出した後醍醐を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣であると考えられている。
翌年、北条時行の中先代の乱が起き、鎌倉が北条軍に奪還されると、二階堂ガ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、時行に奉じられる事を警戒した直義に殺害された。
護良親王(もりながしんのう/もりよししんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日))は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘。妃は北畠親房の娘。
元弘元年(1331年)、後醍醐が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の変を起こすと、還俗して参戦する。
以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼした。
しかし、討幕の功労者足利尊氏(高氏)とは相容れず、討幕後も上洛せず信貴山(奈良県生駒郡平群町)を拠点に尊氏を牽制する。
幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。
建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王(後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。
しかし、尊氏のほか、父の後醍醐やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集め辻斬りを働いたりした。
このため、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334年)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれる。
後醍醐との不和は、討幕戦争の際に討幕の綸旨を出した後醍醐を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣であると考えられている。
翌年、北条時行の中先代の乱が起き、鎌倉が北条軍に奪還されると、二階堂ガ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、時行に奉じられる事を警戒した直義に殺害された。



